自由とは何か:ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』(「時間と自由」)読解
概要
フランスの哲学者ベルクソンの処女作『意識に直接与えられたものについての試論』(邦題『時間と自由』)を読み解く。気持ちを数値のように測れるものへ置き換えるから、人生が因果律に回収され決定論に陥る、というのが出発点。ベルクソンは測ることも分割もできない純粋持続と、デカルトの言う空間的な延長を区別し、時間を空間に並べる習慣(時間の空間化)が決定論の錯覚を生むと論じる。ラプラスの悪魔やエネルギー保存則を相手取り、純粋持続は再現もシミュレーションも不可能だと示す。結論は「我々は稀にしか自由ではない」。
要点
- 私たちは喜怒哀楽を必ず測れるものに置き換えて伝えようとする(誠意の度合いを土下座10秒で示す等)。ベルクソンは、あやふやな気持ちを測定可能なものに置き換えるから人生が因果律=決定論に回収されると指摘する
- デカルトの二元論(思惟と延長)を下敷きに、ベルクソンは延長=空間に対して「持続」を立てる。精神活動は測定も分割もできずシミュレーション不可能だと論証し、決定論からの脱却を試みる
- 純粋持続とは言語・解釈以前の、区別なき質的多様体。動物が生きている状態に近く、そこから無意識のパターンで色のついた現実を構成していく
- 時間の空間化:本来順序のない持続を空間に並べる習慣が、社会生活を可能にする一方で、精神を物のように対象化し因果連鎖に絡め取る
- 決定論の相手として[laplaces-demon|ラプラスの悪魔]を取り上げ、強度・運動・時間が「質と量」「継起と同時性」の妥協にすぎず、純粋持続はそこに含まれないと論じる
- ベルクソンはリベットの実験を先取りし、人間を「意識ある自動機械」と呼ぶ。言動は0.5秒前の無意識のパターンに決定されているとする
- 自由は自発ないし直感のうちにあるが、それを捉え直すのは稀だとして「我々は稀にしか自由ではない」と結論する。純粋持続は唯一無二で再現不可能、神でさえ本人になり変わらない限り完全には予見できない
構造化サマリ
気持ちを測ることの問題
人は喜怒哀楽や愛情・苦悩といった曰く言いがたい気持ちを、必ず計測可能なものに置き換えて伝えようとする。新渡戸稲造『武士道』が「誠」を数学の指数に喩えた一節(どんな数値の後ろに付いてもそれを真実にする)や、土下座で誠意を秒数として示す例が引かれる。ベルクソンは『試論』で、こうしてあやふやな気持ちを測れるものへ置き換えること自体がおかしいのではないか、と問う。
持続と延長:決定論への挑戦
ベルクソンはデカルトの二元論を下敷きにする。デカルトは世界を精神(本質=思惟)と物体(本質=延長)に分け、延長とは空間に占める幅・高さ・奥行きを指す。ベルクソンは延長の対概念として「持続」を立てる。人間の精神活動は計測も分割もできず、要するにシミュレーション不可能だと論証し続けることで決定論からの脱却を試みる。なお外界を「粒の渦巻くカオス」と捉え、五感で受け取っただけの未整理の状態を、ウィリアム・ジェームズは純粋経験と呼んだ(西田幾多郎『善の研究』の純粋経験にも通じる)とし、ベルクソンもこれに近い段階を論じる。
純粋持続と時間の空間化
純粋持続とは、主格・未分化、言語・解釈以前の、区別なき多様体ないし質的多様体。何も考えず音楽に身を委ねる状態が例に挙げられ、動物が生きている持続とも表現される。ここから人間は無意識のパターンによって輪郭づけられた現実を構成する。
決定的なのは「空間化」。とりわけ本来順序を持たない時間を心の空間に左から右へ並べる時間の空間化によって、純粋持続が計測可能な対象に擬態する。直線上を移動する点や、揺れる乗り物に乗った視点の例で、一連の経験を客観的に把握できるのは離れた位置=空間を介して俯瞰しているからだと説く。この能力(等質的空間の直感)があるからこそ数え・分類し・言語でコミュニケーションでき、社会生活を営めるが、その代償として精神が対象化される。これはジェインズの空間化による意識論と、心的なものを空間に置き換える操作に着目する点で響き合う(ジェインズは空間化を意識の起源とするのに対し、ベルクソンは決定論の錯覚を生む元凶とみなす)。
決定論批判:ラプラスの悪魔・強度・時間
ベルクソンはライプニッツ(予定調和・モナド)やスピノザ(『エチカ』では持続が永遠に打ち消される)の、神を持ち出す決定論ではなく、当時最新のエネルギー保存則を相手取る。専門家でなければ[laplaces-demon|ラプラスの悪魔]をイメージすればよいとされる。
ベルクソンは、感情の強さ=強度が純粋な質を量に変換した「質と量の妥協」であり、運動や時間も同様に「継起と同時性の妥協」だと論じる。つまみをひねる運動や時計の針の運動を例に、私たちは意識の総合作用によってバラバラの諸現象を計測可能な運動として対象化し、「同時性」のシャッターで時空をフリーズさせている。だからこそ純粋持続が測定・シミュレーション可能であるかのように錯覚される。だが議論がその形になった時点で、対象はもはや純粋持続ではないと断じる。
自由とは何か:稀にしか自由ではない
ベルクソンはリベットのマインドタイムを先取りし、人間の言動は0.5秒前に幼少期から培われた無意識のパターン(習慣・周辺環境)によって決定されているとする。人間を「意識ある自動機械」と呼び、この自動機械的性質はむしろ社会生活上の特色だと繰り返す。自由とは自発ないし直感のことで、就職の志望動機がもっともらしい理由付けでも本当は「入りたいから」という衝動だったりする、と例示する。ただし自分をそのように捉え直すのは稀であり「我々は稀にしか自由ではない」と結論する。
純粋持続は唯一無二で再現不可能だとも強調する。小説を読んでも結末を完全に予見できないように、いや作家の予期を登場人物が裏切るように、神でさえ本人に完全になり変わらない限りその人がいつ何をするか予測できない。論理のみでここまで到達したことを評価し、ベルクソンへの影響を受けた小林秀雄にも触れて締める(投稿者は、直感的な自由意志も結局は何らかの原因に拠るとの自説を添える)。
登場エンティティ・コンセプト
- henri-bergson — 『試論(時間と自由)』の著者。持続の哲学者
- rene-descartes — 思惟と延長の二元論。ベルクソンの持続論の前提
- benjamin-libet — 脳活動が意思に先行することを示した神経科学者
- pure-duration — 測れず分割できない、言語以前の質的多様体
- spatialization-of-time — 時間を空間に並べる習慣。決定論の錯覚の元凶
- laplaces-demon — 全情報から未来を見通せるとする決定論の象徴
- libet-experiment — 意思の自覚に脳活動が先行する実験(ベルクソンが先取り)
- free-will-veto / determinism-and-moral-behavior — 自由意志をめぐる関連論点
- consciousness-as-spatialized-metaphor — 心的なものの空間化に着目する点で響き合う
印象的な引用
しかし我々が自分自身をこのように捉え直すのは稀であって、だからこそ我々は稀にしか自由ではないのだ。
時間は見られることではなく、生きられることを要求している。