【ワークショップ】マトリックスの世界は可能か──シミュレーション仮説から考える

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概要

時間偶然研究会のワークショップ。映画『マトリックス』を題材にシミュレーション仮説を多角的に検討する。物理・データサイエンス出身の富島裕介が仮説を解説し、ボストロムシミュレーション論法ファインチューニングシンギュラリティを紹介する。哲学者の青木茂が可能性・証拠・無限後退の3つの疑問を投げ、意識のハードプロブレムや懐疑論の固有性が論じられる。最後に実在論と道具主義、自由意志、人格の同一性へ議論が広がる。

要点

  • 映画『マトリックス』が提起する哲学問題(デカルト的懐疑、心身問題、水槽の中の脳、自由意志、AIの意識)を入口に、世界が丸ごとシミュレーションでありうるかを問う
  • 富島数学の不合理な有効性ファインチューニングを根拠に挙げ、ボストロムの論法で「自分が生身である確率はほぼゼロ」と結論する筋道を紹介する
  • 心が再現できるかを巡り、[hard-problem-of-consciousness|意識のハードプロブレム]が心の計算理論への壁として置かれる
  • 青木は3つの疑問を提示:①全世界シミュレーションは原理的に可能か ②ファインチューニングは逆に「人間が数学で切り取れる範囲を見ているだけ」と読めないか ③無限後退で最初の世界が説明できなくなる
  • 山口は大森荘蔵の「立ち現れ」で実在と仮象を区別(連繋性と生存への関わり)し、シミュレーション懐疑の固有性を自然発生と対比して「クリエイターの意図の不可知性」に求める
  • 質疑では実在論(数学は発見される)対道具主義、統一理論と不可知論、上位世界との同型性、記憶が支える人格の同一性、仮説の実践的意味(開き直って大胆に生きる等)が論じられる

構造化サマリ

導入:マトリックスが提起する問い(司会 大/青木茂)

司会は中央大学の大、最初の話題提供は同大文学部哲学専攻の青木茂。映画『マトリックス』(ウォシャウスキー、1999〜)のあらすじを紹介する。プログラマーのネオ(トマス・アンダーソン)はモーフィアスに赤いピルか青いピルかの選択を迫られ、赤を飲んで、1999年の現実が実は2199年のAIが作った仮想世界だったと知る。オラクル(予言者)、アーキテクト(設計者)、エージェントスミス、サイファーの裏切りなどを追い、マトリックス内の死が現実の死とリンクする設定がリアリティを生むと指摘する。この映画が、デカルト的懐疑、心身問題、水槽の中の脳、自由意志、AIが意識やクオリアを持てるか、そして「最初の世界はどこか」という無限問題を一挙に提起すると整理する。

富島裕介:シミュレーション仮説とボストロムの論法

元素粒子物理・現データサイエンティストで『シミュレーション仮説入門』(2019)の著者富島裕介が解説する。出発点は、なぜ世界がここまで数学で記述できるのかという謎(数学の不合理な有効性)。世界がコンピューター上の計算なら、数学で説明できるのは当然だとする。物理学の未解決難問であるファインチューニング問題や多世界・他宇宙論の流れで、シミュレーション仮説も真面目な議論の射程に入ってきたと述べる。

[technological-singularity|シンギュラリティ]と、ボストロムのAI悲観論(『スーパーインテリジェンス』、再帰的に自己改良するAI)を紹介。続いてボストロムのシミュレーション論法を提示する。①技術到達前に文明が滅ぶ ②できてもやらない ③やる——この三択で③が最有力なら、シミュレーション内の人口が圧倒的に多くなり、自分が生身である確率はほぼゼロになる。

心がコンピューター上で再現できるかについては、有力な心の計算理論に対し、チャーマーズの[hard-problem-of-consciousness|意識のハードプロブレム]が壁として立つとする。シミュレーションには脳が生身/脳もシミュレーションなど複数パターンがあり、ティプラーのオメガポイントなども引きつつ、何のためにシミュレートするか(歴史研究・社会実験・暇つぶし・トムクルーズの例)を挙げて締める。

青木茂:3つの疑問

哲学者青木が富島の本に即して3つの疑問を投げる。

第一に、全世界シミュレーションは技術的・原理的に可能か。ボストロムは「133年後にムーアの法則で達成」と試算するが、ムーアの法則自体に陰りがある。計算は観測する時だけ精度を上げて省力化できるが、そもそも全宇宙を貫く法則を科学が解明できるのか(地震予測の不可能性を例に)。さらに「世界の物理構造を真似るのがシミュレーションなら、真似る元の最初の世界はどこから来たのか」という卵と鶏の問題を指摘する。

第二に、ファインチューニングからの議論は伝統的な目的論的証明(時計職人の論証、ペイリー、ID論)の現代版だが、逆に「人間が数学的に切り取れる範囲で世界を解釈しているだけ」という道具主義的読みも可能だとする(ガリレオ「世界は数学の文字で書かれている」、谷村の直感)。

第三に、無限後退問題。シミュレーションの入れ子(マトリックスの中のマトリックス)、ホムンクルスの誤謬を挙げ、ボストロムのハムレット初演の比喩=どの公演・どのバージョンかは原理的に特定できないように、最初の世界が説明できなくなると論じる。

山口:懐疑論の哲学的分析と立ち現れ

チャーマーズ『リアリティ+』の解説を執筆した山口が、シミュレーション懐疑を精密化する。3つの懐疑を区別する:実在を巡る懐疑(夢の可能性)、自由を巡る懐疑(物質の集まりが主体的行為をなしうるか)、シミュレーションを巡る懐疑。

大森荘蔵の「立ち現れ」を使い、実在と仮象を分ける基準を、①他の立ち現れと密に連繋しているか ②生存に関わるか、というプラグマティックな2点に求める(山道で蛇に見えたものが縄だと分かる例)。この基準では、マトリックスのデジタル世界はそこでの死が実在の死に繋がる以上むしろリアルで、仮象であるには「目覚める=夢の構造」が要る。水槽の中の脳は、外界センサーへの再接続という出口を持てば目覚めうる。自由については、物理的な単なる出来事からなぜ主体的行為が生じるかという説明ギャップが残り、これはクオリアの説明ギャップ(マリーの部屋)と同型だとする。

山口の結論とボストロムへの一言

シミュレーション懐疑が夢や自由の懐疑と違う固有性は、クリエイターの意図を知らないことに由来すると結論する。ボルツマン脳のような自然発生的なものなら、なぜこの世界があるかは「たまたま」で済み気持ち悪くない。だが意図を持つクリエイターが作ったとすると、その意図が分からないことが不愉快の源になる。ゆえに「この世界はシミュレーションだ」という主張はクリエイターが誰かの指摘とセットであるべきで、クリエイター抜きの概念は宙に浮く、とボストロムへ注文をつける。

全体質疑:実在論か道具主義か、自由、人格

質疑では論点が広がる。観察する箇所だけ高精度に計算する省力化はバークリー「存在するとは知覚されること」と通じ、神の役割が縮小した新しい創造主像とも読める。実在論対道具主義では、富島が数学実在論=発見モデルを支持し(ディラック方程式が反粒子=陽電子を予言し後に発見された例、相対性理論の「発見」)、山口は人間の認識能力からの構成モデルとの両面を指摘する。統一理論(超弦理論・ループ量子重力)が完成しても「なぜその数式があるのか」という無限後退と意識の謎は残るとされる(ホーキングの「方程式に火を吹き入れたのは誰か」)。

上位世界とは物理法則が断絶しうるが、現象に対応する元が要る以上、最低限の同型性は必要だと論じられる。人格の同一性は記憶が支えるとされ、映画『アバター』(異星人の体に記憶を移しても本人であり続ける)が例に引かれる。多世界解釈=エヴェレット解釈とライプニッツの可能世界・最善説も重ねられる。最後に仮説の実践的意味として、見分けがつかない以上ほぼ何も変わらないが、気楽になれる/「どうせシミュレーションだから」と開き直って起業など大胆な行動に出られる/恵まれた人を別世界から来た存在と見て気を紛らわせる、といった答えが出される。

登場エンティティ・コンセプト

印象的な引用

自分が生身の人間であるという考える理由は、確率論的にはほぼないよね、というのがボストロムの主張です。

シミュレーションの大事なポイントは、見分けがつかないというところ。もしあるとしたら「この世界シミュレーションなんだ、そんなに肩張らなくていいな」と気楽になれる、それぐらい。