オノマトペという足場 — 音象徴が言語習得を立ち上げて捨てられるまで

このページの主語は「音象徴が言語習得を起動して、やがて捨てられるという時間構造」である。ゆる言語学ラジオの赤ちゃんシリーズ4本を縦に貫くと、オノマトペは雑学のひとつではなく、習得という装置を始動させて役目を終える「足場」として一貫した役割を担う。 隣接 synthesis とは軸が違う。how-babies-solve-the-impossible は習得の全体メカニズム(候補を捨てる反則ヒューリスティックの総覧)を扱い、meaning-is-not-a-label は「意味=ラベルではなく関係体系」という結論側を扱う。本ページはそれらの上流にある一点、すなわち「そもそも音に意味が宿ると気づく最初の一歩を何が担うか」だけを掘る。アブダクション回how-babies-solve-the-impossible と共有するが、向こうが装置全体を見るのに対し、こちらは始動と離脱の時間軸に絞る。

出発点の矛盾 — 記号は恣意的なのに入口は非恣意的でなければならない

4本の背後には、明示されないが一本の緊張がある。言語の記号は本来恣意的だ。「犬」という音と犬という動物のあいだに必然はなく、ソシュール以来これは言語学の前提になっている。ところが赤ちゃんはその恣意性の世界に入る前に、まず「音には意味が宿る」という一段手前の事実に気づかねばならない。

ここに矛盾がある。記号が完全に恣意的なら、音と意味の対応は経験から学ぶしかなく、その経験を始めるためには「音と意味は対応しうる」という前提がすでに要る。鶏が先か卵が先かに近い。4本はこの輪を、入口だけ非恣意的な手がかりを置くことで断ち切る。アブダクション回で今井むつみは、「オノマトペというはしごに一回手をかけて、を乗り越える」と語る。恣意的記号の体系には、非恣意的な踏み台から登るしかない、という構図である。

第一段 — 非恣意的対応の実証

足場が実在することを最も強く示すのが 存在しない擬態語回だ。中心の実験では「バトバトしている」のような、現実に存在しない擬態語を聞かせ、どの動画に合うかを選ばせる。結果、2歳半の73%、3歳半の77%が正しい動画を選んだ。大人はほぼ100%、母語話者でないイギリス人でも63%が正答したとされる。

この数字が効くのは、対象語が存在しないからだ。暗記で答えられる余地がない以上、子どもは音そのものの印象から意味へ橋を架けたことになる。音象徴——音の響きと意味のあいだの非恣意的な対応——が、少なくとも一部は話者間で共有されている証拠になる。同じ回は移動の擬態語が「重さ」と「速さ」の二軸で安定して整理できることも挙げる。「のっしのっし」は重く遅く、「ちょこちょこ」は軽く速い。恣意性の海に、音から意味が読める小さな島がある。

第二段 — 足場としての位置づけ

島の存在を示すだけでは足場にならない。存在しない擬態語回はもう一歩進め、音象徴を語彙獲得の前段に据える。架空の動詞は理解できない3歳児でも、「のすのすしている」のような擬態語表現なら動作を推測でき、しかもその表現を別人の動作にも適用できた。

ここで擬態語は動詞獲得の入口になる。動詞は名詞より難しい。指させる対象がなく、動作という抽象を切り出さねばならないからだ。その難所に、音から意味が透けて見えるオノマトペが踏み台を差し込む。動画はこう転換する。大人が子どもに「ポイして」「ゴシゴシして」と言うのは、甘やかした幼児語ではなく、動作の意味をつかませる有効な足場だと。「ちゃんとポイしてって言ったほうが先に覚えられる」という発言は、足場が実用上も効くという主張になっている。

アブダクション回はこの位置づけを習得全体の枠へ接続する。「ピカピカ」「ブーブー」のように音と意味の結びつきが見えやすい語は、赤ちゃんが「通常の語にも意味がある」と推論する足場になる、と。存在しない擬態語回が「動詞という個別カテゴリの足場」を示すのに対し、アブダクション回は「名付けという営み全体の足場」へ射程を上げる。2本は同じ足場を、解像度違いで補強し合う関係にある。

第三段 — はしごの比喩、そして足場が外れる

足場の本質は、登り切れば外れる点にある。アブダクション回の「はしごに手をかけて乗り越える」という比喩がこれを明示する。はしごは到達のための一時的な道具で、上に立てば足の下から消える。音象徴は習得を起動するが、語彙が育つにつれ役目を終え、子どもは恣意的記号の体系へ移っていく。

足場が外れた後の世界が、残りの2本に現れる。アブダクション回の主役は音象徴ではなくアブダクション——観察から見えない規則を飛躍的に推測する働きだ。「肉食・草食」を「2色」と読み「食」を助数詞として一般化する例は、入力にない数え方を作る大胆な仮説形成であって、もはや音から意味が透ける段階ではない。子どもは足場を離れ、恣意的な記号体系の内側で規則を組み替えはじめている。

つめたまる回はこの離脱を最も鮮やかに見せる。今井むつみが最優秀級に評価する「つめたまる」は、「あたたまる」に対応する語が「冷たくなる」側に存在しない、という日本語体系の穴を子どもが自力で埋めた造語だ。これは音から意味を読む操作ではない。語彙体系の非対称性を内側から検知し、既存の形態論の規則を適用して穴を補う操作である。足場の上に立った子どもがやることは、もう音象徴ではなく体系の操作になっている。

足場の上で起きること — 創造的命名と過剰一般化

足場を離れた後の活動を、4本は創造性として一貫して肯定する。ミステイクアワード回つめたまる回は、子どもの言い間違いを失敗ではなく言語運用の証拠として鑑賞する企画だ。「ママから生まれたからママ太郎」「父の名前はコロ助」のような再分類や過剰一般化は、子どもが恣意的記号の体系に独自の仮説を投げ込んでいる痕跡になる。

ただし注目すべきは、足場を離れたはずの場面で音象徴がなお顔を出すことだ。ミステイクアワード回では、パイナップルを「パーリープリプリ」、コロッケを「コーリークリクリ」、ヨーグルトを「よここここ」と呼ぶ例が紹介される。これは「名前の音が対象の質感を担うべきだ」という感覚の表れで、子どもがまだ音象徴的な期待を引きずっている証拠と読める。つめたまる回のショベルカーを「ばよっぱよばよ」、曲の抑揚を「平らな歌」「くにゃくにゃな歌」と呼ぶ例も同じだ。

動画では明言されないが、足場は瞬時に外れるのではなく、しばらく残響を残しながら段階的に退いていく、と推察される。創造的命名のなかに音象徴の名残と恣意的体系の操作が同居しているのは、登り切る途中の風景にあたる。

串刺しのテーゼ — 起動と離脱という時間構造

4本を貫く一本の線はこうだ。言語の記号は恣意的という終着点と、音には意味が宿るという出発点のあいだに、両者を架橋する一時的な足場がある。その足場が音象徴であり、具体的な姿がオノマトペだ。

存在しない擬態語回が足場の実在(73%の非恣意対応)と用途(動詞獲得の前段)を実証し、アブダクション回が「はしご」の比喩で足場の一時性を明示しつつ離脱後の世界(アブダクション)を描く。つめたまる回が離脱の完了形(体系の穴を内側から埋める「つめたまる」)を、ミステイクアワード回が離脱途中の残響(音象徴を引きずる創造的命名)を見せる。4本は別々の回でありながら、起動・用途・離脱・残響という足場の一生を分担して描いた一個の論証になっている。

非自明なのはこの時間構造そのものだ。足場は欠陥ではなく、恣意的な体系へ入るために原理上必要な踏み台であり、しかも役目を終えたら消える。言語が恣意的であることと、その習得が非恣意的な手がかりから始まることは矛盾しない——両者は時間軸の上で順に起き、後者が前者を可能にする。

本ページは音象徴という足場の起動と離脱だけを扱う。足場の上で動く反則ヒューリスティックの全体像は how-babies-solve-the-impossible へ、足場を離れた先の「意味=関係体系」という着地点は meaning-is-not-a-label へ接続する。

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