無我・非我と受動意識仮説

前野隆司受動意識仮説と仏教思想の一致を論じる枠組み。ブッダ研究者の石飛道子から「前野が言っているのはブッダの謎解きだ」と指摘されて気づいた、とする。

釈迦は「無我」(私はない)と「非我」(私ではない)の両方を説き、論理的に矛盾すると言われてきた。石飛はこれが両立すると示した。前野は、自分の「意識は幻想」が無我に、「意識は無意識に対して受動的」が非我に、それぞれ対応すると整理する。

幻想とは、本当はないのにあるように感じること。意思決定や感覚は本当は私(意識)がやっていないのに、やったように感じる——これが無我。実際に決めているのは世界とつながった無意識(縁起・因果)で、私の心がやっていることは私ではない——これが非我。

前野は老荘思想(無為自然・万物斉同)やスピノザ・ヒュームも同じ受動的世界観に連なるとし、能動的な意識を前提とする西洋近代哲学(デカルト・カント)と対比する。釈迦が2500年前に気づいたことに気づき直したにすぎない、と述べる(see Ox8gJEIe5Ac)。